←ポチっと押してね!
先日のブログでは『直江兼続』を全部書ききれなかったので今日はその続きです。
慶長3年8月18日(1598年9月18日)に秀吉が死去すると、次の天下人として徳川家康が台頭するようになりました。
石田三成と親交があった兼続は、徳川家康と対立するようになります。
そして徳川家との融和を主張した上杉家重臣・藤田信吉と対立して追放に追い込み、さらに家康の度重なる上洛要求も拒むなどして、やがて関ヶ原の戦いの遠因となる会津征伐を引き起こしました。
このときに家康を激怒させ、会津遠征を決意させる直接のきっかけとなった『直江状』はあまりにも有名ですね!
関ヶ原の戦いでは、兼続は東軍に与した出羽山形藩の領主最上義光の領地である山形に、総大将として3万人の精鋭を率いて侵攻します。
その頃、美濃では関ヶ原の戦いが行われていて、西軍が敗れた事が奥州に伝わると、上杉軍は長谷堂城攻略を中止して撤退を開始しました。
勢いに乗った最上軍と義光救援のために伊達政宗が援軍として派遣した留守政景(政宗の叔父)軍が追撃してきて激戦になりますが、水原親憲、前田利益(慶次)ら上杉勢の諸将の奮戦もあって、米沢への撤退に成功しました。
この撤退戦は語り草となり、兼続は敵である義光、家康にも称賛され、旧日本陸軍参謀本部の日本戦史でも取り上げられているほど、見事なものだったといいます。
結果として上杉軍の最上侵攻は、山形の攻略が成らなかったばかりか、逆に反撃に出た最上軍に庄内地方を奪回され、また伊達軍の福島侵攻を誘発することになりました。
そして関ヶ原の戦いが終わり、慶長6年(1601年)7月、上杉景勝とともに上洛して家康に謝罪することになります。
家康から罪を許された景勝は出羽米沢30万石へ減移封となり、上杉氏の存続を許されました。
その後、上杉家は徳川家に忠誠を誓い、慶長13年1月4日(1608年2月19日)に兼続は「重光」に改名することになります。
そして兼続は藩政に取り組み、米沢城下に堤防を築いて町を整備し、殖産興業・鉱山の開発を推進するなど、米沢藩の藩政の基礎を築きます。
その一方で上杉家と徳川家の融和を図り、徳川家家臣の本多正信とも交流があり慶長14年(1609年)には正信の取り成しで10万石分の役儀が免除されるなど上杉家に大きく貢献しています。
また、正信の息子である本多政重が一時兼続の養子となっていた時期があります。
しかし、政重とは養子縁組が解消されることになりますが親交は続いていたようです。
慶長19年(1614年)からの大坂の陣においても、徳川方として参戦し、数々の武功を挙げます。
そして元和5年12月19日(1620年1月23日)、60歳で江戸鱗屋敷で病死しました。
以上『直江兼続』の一生を大まかにまとめてみました。
来年の大河ドラマ『天地人』を見る前に参考にしてもらえたらと思います。
それと原哲夫原作の『花の慶次』のスピンオフ作品である『義風堂々 直江兼続-前田慶次 月語りー』(コミックバンチ連載中)もなかなか面白いのですよ!!


↑↑ランキングに参加してます!!
押していただけると励みになりますので応援よろしくお願いします!!
最近のコメント