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2009年5月30日 (土)

天地人 『真田幸村』

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今週の天地人は『真田幸村参上』ということで、いよいよ「真田幸村」が登場、城田優が演じます。

真田幸村石田三成同様、兼続の生涯の盟友といわれていますね!!

ただ兼続より年が下ということもあり、師弟関係とも言われているようです。

幸村は史実では「真田信繁」といいます。

信繁という名前はあまり馴染みはないのですよね!!

幸村という名前は、江戸期以降の講談などの影響で広く知られるようになりますが、直筆の書状を始め、幸村が生きていた同時代の史料で「幸村」の名が使われているものは存在しないそうです。

「幸村」という名前が初めて登場したのは、江戸時代の寛文12年(1672年)成立の軍記物語『難波戦記』で、その本が爆発的に売れたため、「幸村」とすることのほうが一般的となりました。

「幸村」という名の由来は、父親の真田昌幸の死後に昌幸の片諱を継承して実際に「幸村」と名乗ったという説や、夏の陣での死の二ヶ月前に「幸村」と改名したため、という説もあります。

しかし、大阪冬の陣と大阪夏の陣の半ばの慶長20年2月に叔父にあてた手紙や、兄・姉にあてた手紙にも信繁の名があります。

天正3年(1575年)父親の真田昌幸(当時は武藤喜兵衛を名乗ってました)が武田家の家臣時代、幸村が9歳の時、真田氏の主家で甲斐国・信濃国を治める武田勝頼が、長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗北します。

この時期、昌幸の2人の兄も亡くなったため、真田家は昌幸が継ぐこととなり、信繁は父に付き従い古府中を離れ上州岩櫃城に移る。これより信繁も真田を称するようになりました。

おととしの大河ドラマ『風林火山』で佐々木蔵之介が演じていた真田幸隆は幸村の祖父にあたります。

天正10年(1582年)3月11日、織田・徳川・北条連合軍の甲斐侵攻で武田氏が滅亡すると、真田氏は織田信長に恭順し所領を安堵されます。

そして本能寺の変後は、所領を守るために上杉・北条・徳川など周辺の諸大名の傘下を渡り歩くことになり、この際に当主の息子である幸村は人質として諸大名の下を転々としています。

昌幸は最終的に秀吉の傘下に入ったため幸村秀吉の下に留まり、のちに秀吉の家臣・大谷吉継の娘を正妻に迎え、文禄3年(1594年)11月2日、豊臣氏名義で従五位下左衛門佐に叙任されます。

関ヶ原の合戦では、五大老の徳川家康が同じく五大老の一人だった会津の上杉景勝討伐のための軍に従軍し、留守中に五奉行の石田三成らが挙兵して関ヶ原の戦いに至ると、父と共に西軍に加勢しましたが、兄の信之は妻が本多忠勝の娘のため徳川方の東軍につき袂を分かつことになります。

徳川方の東軍は東海道と中山道を分かれて進軍し、昌幸と幸村は居城の上田城に籠り、中山道を進んできた東軍の徳川秀忠軍と上田城で迎え撃ちました。

寡兵の真田勢にてこずった秀忠軍は上田城攻略を諦め去りましたが、結果として主戦場となった美濃関ヶ原での決戦には遅参することになります。

しかし三成率いる西軍は、秀忠軍ぬきの徳川方に敗北を喫し、昌幸幸村は本来なら敗軍の将として切腹を命じられるところでしたが、信之の取り成しで紀伊国九度山に配流を命じられるのみにとどまりました。

蟄居中の慶長16年(1611年)に父・昌幸は死去し、慶長17年(1612年)には幸村は出家し伝心月叟と名乗りました。

この後大阪城への入場へと続きますが、また後日改めてということにします。

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