映画・テレビ

2010年1月 2日 (土)

今年は『柳生武芸帳』!!

毎年恒例テレビ東京の新春ワイド時代劇、今年は『柳生武芸帳』!!

毎年この番組は録画して保存してあります。

今年もビデオテープですけど…。

新春ワイド時代劇で柳生一族が主役をやるのは三度目。

主役の柳生十兵衛を演じるのが反町隆史

柳生十兵衛は柳生宗矩の長男で、柳生家の異端児、しかも剣の達人。

その十兵衛の弟、柳生又十郎速水もこみち、そして柳生但馬守宗矩高橋英樹

柳生家の宿敵で疋田陰流の頭領山田浮月斎松方弘樹

浮月斎は徳川幕府を滅ぼして天下を取ろうとします。

そして浮月斎に拾われ盲目的に命令に従う霞多三郎山本太郎

反幕派の勅使、中ノ院大納言通村京本政樹

尾張柳生の頭領柳生兵庫介松平健宮本武蔵宅麻伸、知恵伊豆こと松平伊豆守風間トオル

大御所徳川家康石橋蓮司春日局高島礼子が演じます。

このシリーズは始まったころは12時間番組でしたが、ここ数年は10時間となり、今年は7時間の放送となっています。

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2009年10月29日 (木)

来年の大河ドラマ!!

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『天地人』も残すところ、あと4回の放送で終了します。

先日金沢の旅行で直江家に婿養子に入る本多政重の家系の博物館を見学して感慨深いものがありました。

来年のNHK大河ドラマは『龍馬伝』!!

坂本龍馬の生涯を海援隊の隊士岩崎弥太郎の視点から描かれているようです。

この岩崎弥太郎という人物は知っている方も多いと思いますが、三菱財閥の創始者でもあります。

余談ですが、「小岩井農場」ってありますよね!!

「小岩井農場」は三菱社2代目社長・岩崎弥之助(弥太郎の弟)、鉄道庁長官・井上勝、日本鉄道会社副社長・小野義眞が共同創始者で“小岩井”は3人の頭文字をとったものです。

今回は『新選組』以来6年ぶりのオリジナル作品で、収録も8月19日よりスタートしているようです。

出演者もすでに公開されていますが、主人公の坂本龍馬福山雅治が演じます。

龍馬の姉の坂本乙女寺島しのぶ岩崎弥太郎香川照之

龍馬の初恋相手、平井加尾広末涼子、その兄平井収次郎宮迫博之

あと主な登場人物としては近藤長次郎大泉洋勝海舟武田鉄矢西郷隆盛高橋克実など豪華キャストが決まっているようです。

以前にも書きましたが、ここ最近のNHK大河は戦国、幕末が繰り返されています。

しかも今回は『新選組』以来のオリジナル作品ですから、どんなストーリー展開になるか楽しみです!!

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2009年8月11日 (火)

天地人 『小早川秀秋』

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先日の『天地人』では、初めて上路雄輔演じる『小早川秀秋』が出てきましたね~!!

なんだか後半に入ってからは展開が早いような気がします。

この小早川秀秋『関ヶ原の戦い』ではとても重要なカギを握る人物です!!

出生は豊臣秀吉の正室寧々の兄、木下家定の子で幼名を辰之助。

元服時の初名は木下秀俊といいます。

後に羽柴秀吉の養子になり羽柴秀俊と名乗り、天正17年(1589年)、病死した豊臣秀勝(秀吉の甥で秀次の兄)の旧領地・丹波亀山10万石を与えられます。

文禄3年(1594年)、秀吉の命にて小早川隆景(毛利元就の三男で輝元の叔父にあたります)の養子として小早川家に入りました。

関ヶ原の戦いでは最初は西軍に参戦してますが、一説に当初から東軍と内通していたとも言われています。

このため石田三成大谷吉継らは、秀秋の行動に不審を感じ、関ヶ原の合戦の前に西軍勝利の暁には豊臣秀頼が成人するまでの間、関白職への就任を約束するなどして西軍への残留工作を行っています。

ですが秀秋家康との間に密約があったとされる説もあり、合戦時には西軍に布陣はしていたものの秀秋の心は東軍にあったとされています。

しかし、午前中の戦況は西軍有利に推移しており秀秋は東軍参加を躊躇。

それにいら立った家康は何度も使者を送って西軍への攻撃命令を下すものの、軍を動かさない秀秋に対し威嚇発砲させました。

(この件はけっこう有名な話ですよね!!)

それに動揺した秀秋はついに東軍への加担を決意、合戦の戦況も東軍へと傾いてきました。

合戦は東軍の勝利となり、家康から岡山55万石に加増され、この頃より小早川秀詮(ひであき)と名乗るようになります。

そして、21歳で死去していますが、その死因については今でも様々な説があるようです。

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2009年8月 6日 (木)

先々週のDVD

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ヒットマン<完全無修正版> [DVD]

『ヒットマン』

優雅なスタイルと確かなテクニックのプロの殺し屋(ティモシー・オリファント)は、首の後ろのバーコードの刺青から“エージェント47”という名前で知られていた。淡々と殺しを重ねる“47”の前に、ある日ロシア人の売春婦ニカ(オルガ・キュリレンコ)が現れる。(シネマトゥデイ)

ビデオゲームシリーズを映画化ということなんですが、ゲームのことはよくわかりませんので知りませんでした(゚ー゚;

途中いまいち理解しづらいシーンもありましたが、全体を通してスピード感あるところとそうでないところのメリハリがあって最後まで気持ちよく見ることが出来ました。

ティモシー・オリファントが主演で、『007/慰めの報酬』でボンドガールに抜擢されたオルガ・キュリレンコも出演しています。

地球が静止する日 <2枚組特別編>〔初回生産限定〕 [DVD]

『地球が静止する日』

任務遂行のために地球へとやってきた、宇宙からの使者クラトゥ(キアヌ・リーヴス)。クラトゥの謎を解き明かすべく政府や科学者はやっきになる中、今訪れんとする危機に気付いたのはヘレン(ジェニファー・コネリー)と息子(ジェイデン・スミス)だけだった。(シネマトゥデイ)

久しぶりに見たキアヌ・リーブス主演映画です!!

あの巨大ロボット(?)がとても印象的でしたね~。

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2009年7月25日 (土)

『DRAGONBALL EVOLUTION』

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昨日レンタル店によったらハリウッド版『ドラゴンボール』のDVDがレンタル中だったので、借りて来て見てみました。

原作と全然違いますね~w(゚o゚)w

まあ、映画にまとめるじたい無理があるようにも思えますが、それにしても設定が無茶過ぎるような…!!

製作総指揮は鳥山明、監督がジェームズ・ウォン

キャスティングは悟空/ジャスティン・チャットウィンブルマ/エミー・ロッサムピッコロ大魔王/ジェームズ・マースターズチチ/ジェイミー・チャンマイ/田村英里子亀仙人/チョウ・ユンファ

悟空は孫悟飯(じっちゃんの方)の修行のもとハイスクールに通っていて、孫悟飯をピッコロに殺される。

そして亀仙人のもとで修業をしながら、ドラゴンボールを探す旅に出てピッコロと戦う。

といったところでしょうか!?

悟空が高校生でチチとクラスメート、笑ってしまいました( ´艸`)

ハリウッド映画でおなじみのハイスクールのシーンで、チチが悟空をホームパーティーに誘います。

悟空とチチとのキスシーンは見たくなかったな…。

やはり1時間半弱でストーリーをまとめることは無理がありますね~(゚ー゚;

天下一武道会や大猿(とはいってもピッコロと身長が変わらないくらい)に変身など盛り込み過ぎかな!?

最後に気づいたんですが、クリリンが出てきてませんでしたね。

ホントに鳥山明総指揮だったんでしょうか?

ドラゴンボール EVOLUTION (特別編) [DVD]

『ドラゴンボール』を頭から切り離して見ると、VFXもかなり駆使されてて映像的にはダイナミックに仕上がってるし面白いと思いますよ!!

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2009年7月18日 (土)

『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』

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先日見たDVDです。

原作はF・スコット・フィッツジェラルドの短編小説。

『セブン』の監督デヴィッド・フィンチャーが映画化。

1918年、ニューオーリンズ、ある夫婦の間に生まれた男の子は80歳の老人で、母親は子どもを産んですぐ亡くなり、父親はその子に驚き老人養護施設に置き去りにしてしまいます。

ベンジャミンと名付けらて、その施設で生活することとなりますが、成長するにつれ次第に若返っていきます。

少年期(とはいっても、見た目は60歳代)を迎えたベンジャミンは、ある日、入居者の孫娘、6歳の少女デイジーと出会い、一目惚れをします。

青年期のベンジャミンはしばらく彼女と離れ、いろいろな人生経験を経て彼女と再会(その間どんどん若くなっていきます)

見た目も実年齢も近くなった二人は一緒に暮らし、やがて子供ができます。

しかし、ベンジャミンは生まれてくる子供の成長と共に一緒に年をかさねられない自分が、いつかデシジーに負担をかけることを思い、家を出ることを決意。

十数年後再び再開し、その時はベンジャミンの見た目は10代、デイジーは40~50代といったところかな?

最初に出会った施設で一緒に暮らすことになり、老いていくベンジャミン(見た目は赤ちゃん)はデイジーに看取られて人生の幕を閉じます。

ベンジャミン役はブラット・ピットでデイジー役はケイト・ブランシェット

『バベル』以来の共演ですね!!

ブラット・ピットケイト・ブランシェットの年齢の変化が鮮明にCGで処理されていて、はじめは別な俳優が演じているのかと思いました。

それと、見終わってみて『フォレスト・ガンプ』と通じるような満足感があるような気がしますね!!

(途中船のってるし、戦争に参加してるし、一人の女性を一途に思ってるところなんか似てますよね~!!)

ベンジャミン・バトン 数奇な人生 特別版(2枚組) [DVD]

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2009年6月14日 (日)

『ターミネーター4』公開!!

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昨日からターミネーターの新シリーズ『ターミネーター4』が公開されましたね!!

6年ぶりとなるシリーズの新作の監督は『チャーリーズ・エンジェル』で知られるマック・G監督

主人公のジョン・コナー『ダークナイト』でバットマンを演じたクリスチャン・ベイル

そして今回の物語のキーパーソンとなるマーカス・ライトサム・ワーシントンが演じます。

シュワちゃんも出演するという噂があったようですけど、どうやらCGらしいですね!!

今回はシリーズでは初めての「審判の日」から10年後の時代が本格的に描かれているようです。

かつてのジョン・コナー少年が兵士へと成長し、人類軍の指導者としてスカイネットに立ち向かうというストーリーになっています。

ターミネーター4

思い起こせば初めて『ターミネーター』を見たのがもう20年以上前。

映画で見たのかテレビだったかビデオだったかも忘れてしまいました。

それから1991年に『ターミネーター2』が公開されましたけど、当時でのCGには驚きでした。

『ターミネーター』では敵だった「T-800」も『ターミネーター2』では味方になり、コナー親子と共に闘ってくれました。

最近ではドラマ版の『サラ・コナー クロニクルズ』もセカンドシーズンがレンタル開始となりましたので、こちらも楽しみです。

ぼくはあまり映画館へは行かず、DVDで見る方が多いんですが今回はやはり映画館で見たいですね!!

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2009年6月 7日 (日)

天地人 『真田幸村』~続き

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先日の『真田幸村』の続きです。

前回は九度山に配流させられたところまででしたので、今日は大阪城入城からです。

慶長19年(1614年)「方広寺事件」をきっかけに徳川氏と豊臣氏の関係が悪化、大名の加勢が期待できない豊臣家は浪人を集める策を採り、九度山の幸村の元にも使者を派遣します。

「方広寺事件」とは、この鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の銘文が徳川家康の“家”と“康”を分断し豊臣を君主として、家康および徳川家を冒涜するものとみなされて、大阪の役による豊臣家滅亡を招いたとされています。

幸村は国元にいる父・昌幸の旧臣たちに参戦を呼びかけ、九度山を脱出して子の大助幸昌とともに大坂城に入城しました。

しかし幸村自身については、それまで真田氏の次男坊として父・昌幸や兄・信之の名声に隠れていたために評価は低く、徳川家康昌幸ではなく、その息子で無名の幸村が大坂に入ったと知り安堵の表情を浮かべたとされています。

そして慶長19年(1614年)に始まる大坂冬の陣幸村は、当初籠城に反対し、京を抑え、宇治・瀬田で積極的に迎え撃つよう主張しました。

しかし籠城の策と決すると、幸村は大坂城の弱点であった三の丸南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる土作りの出城を築き、鉄砲隊を用いて徳川方を挑発し先方隊に大打撃をあたえました。

この真田丸を造る際、大坂方の他の武将は幸村が徳川方に寝返るための下準備と疑っており、少々ながらも警戒していました。

しかし、この時は越前松平勢、加賀前田勢等を撃退し、真田昌幸の息子という扱いではなく、初めて“真田幸村”として、その武名を知らしめる事となります。

冬の陣の講和後、この真田丸は両軍講和に伴う堀埋め立ての際に真っ先に取り壊されてしまいました。

そして大坂方の弱体化を謀る家康は慶長20年2月に、使者として幸村の叔父である真田信尹を派遣し「信濃の中で一万石を与える」事を条件に寝返るよう説得しています。

しかしこれを幸村が断わると、家康は再び信尹を使者として差し向け、今度は「信濃一国を与える」と説得に出ました。

これを聞いた幸村は「一万石では不忠者にならぬが、一国では不忠者になるとお思いか」と再びはねのけたといいます。

翌年の大坂夏の陣では、道明寺の戦いにおいて、伊達政宗隊の先鋒を銃撃戦の末に一時的に後退させました。

これら度々の勝ち戦により、次第に徳川軍も真田軍への攻撃を自重せざるを得なくなり、幸村はそれを見て堂々と大坂城に一時撤収します。

しかし豊臣軍は後藤基次木村重成などの主だった武将が討死し、疲弊していきました。

幸村は士気を高める策として豊臣秀頼自身の出陣を求めましたが、側近衆や母の淀殿に阻まれ失敗します。

豊臣氏の敗色が濃厚となる中、幸村は最後の作戦として、豊臣方右翼として真田軍、左翼として毛利勝永軍を四天王寺・茶臼山付近に陣形し射撃戦と突撃を繰り返し徳川軍の陣形に対し本陣を孤立させ、明石全登の軽騎兵団を迂回させ家康本陣を横撃させるというものでした。

しかし毛利隊の前面諸将が勝手に射撃を開始してしまったため、作戦を断念せざるを得なくなりました。

そして正面から徳川家康の本陣めがけて決死の突撃を敢行します。

この突撃は真田勢のみではなく、左翼から攻める毛利勝永明石全登らも奮闘し家康本営に肉薄し、勝永は本多勢を蹴散らし、何度か本営に突進したといわれています。

真田勢は越前松平勢を突破し、家康の本陣まで攻め込み、屈強で鳴らす家康旗本勢を蹴散らしました。

しかし、最終的には数で勝る徳川軍に追い詰められ、越前松平勢鉄砲組の西尾仁左衛門宗次にその首を討たれました(享年49)。

幸村討死の翌5月8日、豊臣秀頼淀殿母子は大坂城内で自害、秀吉の誇った大坂城も炎上し落城、ここに大坂夏の陣は徳川方の勝利に終わりました。

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2009年5月30日 (土)

天地人 『真田幸村』

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今週の天地人は『真田幸村参上』ということで、いよいよ「真田幸村」が登場、城田優が演じます。

真田幸村石田三成同様、兼続の生涯の盟友といわれていますね!!

ただ兼続より年が下ということもあり、師弟関係とも言われているようです。

幸村は史実では「真田信繁」といいます。

信繁という名前はあまり馴染みはないのですよね!!

幸村という名前は、江戸期以降の講談などの影響で広く知られるようになりますが、直筆の書状を始め、幸村が生きていた同時代の史料で「幸村」の名が使われているものは存在しないそうです。

「幸村」という名前が初めて登場したのは、江戸時代の寛文12年(1672年)成立の軍記物語『難波戦記』で、その本が爆発的に売れたため、「幸村」とすることのほうが一般的となりました。

「幸村」という名の由来は、父親の真田昌幸の死後に昌幸の片諱を継承して実際に「幸村」と名乗ったという説や、夏の陣での死の二ヶ月前に「幸村」と改名したため、という説もあります。

しかし、大阪冬の陣と大阪夏の陣の半ばの慶長20年2月に叔父にあてた手紙や、兄・姉にあてた手紙にも信繁の名があります。

天正3年(1575年)父親の真田昌幸(当時は武藤喜兵衛を名乗ってました)が武田家の家臣時代、幸村が9歳の時、真田氏の主家で甲斐国・信濃国を治める武田勝頼が、長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗北します。

この時期、昌幸の2人の兄も亡くなったため、真田家は昌幸が継ぐこととなり、信繁は父に付き従い古府中を離れ上州岩櫃城に移る。これより信繁も真田を称するようになりました。

おととしの大河ドラマ『風林火山』で佐々木蔵之介が演じていた真田幸隆は幸村の祖父にあたります。

天正10年(1582年)3月11日、織田・徳川・北条連合軍の甲斐侵攻で武田氏が滅亡すると、真田氏は織田信長に恭順し所領を安堵されます。

そして本能寺の変後は、所領を守るために上杉・北条・徳川など周辺の諸大名の傘下を渡り歩くことになり、この際に当主の息子である幸村は人質として諸大名の下を転々としています。

昌幸は最終的に秀吉の傘下に入ったため幸村秀吉の下に留まり、のちに秀吉の家臣・大谷吉継の娘を正妻に迎え、文禄3年(1594年)11月2日、豊臣氏名義で従五位下左衛門佐に叙任されます。

関ヶ原の合戦では、五大老の徳川家康が同じく五大老の一人だった会津の上杉景勝討伐のための軍に従軍し、留守中に五奉行の石田三成らが挙兵して関ヶ原の戦いに至ると、父と共に西軍に加勢しましたが、兄の信之は妻が本多忠勝の娘のため徳川方の東軍につき袂を分かつことになります。

徳川方の東軍は東海道と中山道を分かれて進軍し、昌幸と幸村は居城の上田城に籠り、中山道を進んできた東軍の徳川秀忠軍と上田城で迎え撃ちました。

寡兵の真田勢にてこずった秀忠軍は上田城攻略を諦め去りましたが、結果として主戦場となった美濃関ヶ原での決戦には遅参することになります。

しかし三成率いる西軍は、秀忠軍ぬきの徳川方に敗北を喫し、昌幸幸村は本来なら敗軍の将として切腹を命じられるところでしたが、信之の取り成しで紀伊国九度山に配流を命じられるのみにとどまりました。

蟄居中の慶長16年(1611年)に父・昌幸は死去し、慶長17年(1612年)には幸村は出家し伝心月叟と名乗りました。

この後大阪城への入場へと続きますが、また後日改めてということにします。

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2009年5月24日 (日)

天地人 『石田三成』~続き

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今日の天地人は『三成の涙』ということで、今日の放送で三成兼続はかなり接近することになるでしょう!

なので、今日は先日書いた『石田三成』の続きで、秀吉死後の内容になります。

豊臣氏の家督は嫡男の豊臣秀頼が継ぎますが、次の天下人の座を狙う関東250万石の大老・徳川家康が次第に台頭してゆきます。

家康は天下を手中に治めるため、三成と対立関係にあった福島正則加藤清正黒田長政らと、豊臣氏に無断で次々と縁戚関係を結びます。

慶長4年(1599年)1月、三成家康の無断婚姻を「秀吉が生前に制定した無許可縁組禁止の法に違反する」として、前田利家らと諮り、家康に問罪使を派遣します。

家康も豊臣政権の中で孤立する不利を悟って、2月2日に親豊臣派と誓紙を交わして和睦しました。

しかし、閏3月3日に家康と互角の勢力を持っていた大老・前田利家が病死します。

その直後、三成と対立関係にあった武断派の加藤清正福島正則黒田長政細川忠興浅野幸長池田輝政加藤嘉明の7将が、三成の大坂屋敷を襲撃したのは有名な話ですよね。

しかし三成は事前に佐竹義宣の助力を得て大坂から脱出し、伏見城内に逃れていました。

この仲裁に乗り出したのが徳川家康でこれにより和談が成立し、三成は五奉行からの退隠を承諾しました。

前田利家の死去・石田三成の蟄居により、家康の専横は再び活発になり、一旦白紙にしていた無断婚姻や秀吉の遺命で禁止されていた所領配分なども実施しました。

慶長5年(1600年)7月、三成家康を排除すべく、上杉景勝直江兼続らと密かに挙兵の計画を図ったといわれています。

その後、上杉勢が公然と家康に対して叛旗を翻し、家康は諸大名を従えて会津征伐に赴きました。

これを東西から家康を挟撃する好機として挙兵を決意した三成は、大谷吉継を味方に引き込もうとします。

吉継は、家康と対立することは無謀であるとして反対しましたが、三成との親交などもあって承諾しました。

これには秀吉存命の折の茶会で、らい病を患っていた吉継の膿が茶に落ちたとき余人が回し飲むのをためらった際、三成が吉継のためにそれを飲み干したため、その友情に報いようとしたためという説もあります。

同年7月17日、毛利輝元を西軍の総大将として大坂城に入城させ、同時に前田玄以増田長盛長束正家の三奉行連署からなる家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状を諸大名に公布しました。

7月18日、西軍は家康の重臣・鳥居元忠が守る伏見城を攻め、8月からは伊勢方面の平定に務めましたが、家康ら東軍の西上が予想以上に早かったため、三成は関ヶ原で野戦を挑むことを決めます。

そして9月15日、東軍と西軍による天下分け目の戦いである『関ヶ原の戦い』が始まりました。

当初は西軍優勢であり、石田隊は6900人でしたが、細川忠興黒田長政加藤嘉明田中吉政ら兵力では倍以上の敵に攻められたものの、島左近蒲生郷舎舞兵庫らの奮戦もあって持ちこたえました。

しかし西軍全体では戦意の低い部隊が多く、次第に不利となり、最終的には小早川秀秋脇坂安治らの裏切りによって西軍は総崩れとなり、三成は戦場から逃走して伊吹山に逃れることになります。

その後は春日村に逃れ、新穂峠を迂回して姉川に出た三成は、草野谷、小谷山の谷口、高時川の上流に出て古橋に逃れましたが、9月21日、家康の命令を受けて三成を捜索していた田中吉政の追捕隊に捕縛されました。

そして9月22日、大津城に護送されて城の門前で生き曝しにされ、その後家康と会見し、9月27日には大坂に護送され、9月28日には小西行長安国寺恵瓊らと共に大坂・堺を罪人として引き回されました。

9月29日、京都に護送され、奥平信昌(京都所司代)の監視下に置かれ、10月1日、家康の命により六条河原で斬首されました。

一説では、引き回された三成は影武者であり、本物の三成は高知へ逃げて自害したとも言われています。

天地人 『石田三成』

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