
今日の天地人は『三成の涙』ということで、今日の放送で三成と兼続はかなり接近することになるでしょう!
なので、今日は先日書いた『石田三成』の続きで、秀吉死後の内容になります。
豊臣氏の家督は嫡男の豊臣秀頼が継ぎますが、次の天下人の座を狙う関東250万石の大老・徳川家康が次第に台頭してゆきます。
家康は天下を手中に治めるため、三成と対立関係にあった福島正則や加藤清正、黒田長政らと、豊臣氏に無断で次々と縁戚関係を結びます。
慶長4年(1599年)1月、三成は家康の無断婚姻を「秀吉が生前に制定した無許可縁組禁止の法に違反する」として、前田利家らと諮り、家康に問罪使を派遣します。
家康も豊臣政権の中で孤立する不利を悟って、2月2日に親豊臣派と誓紙を交わして和睦しました。
しかし、閏3月3日に家康と互角の勢力を持っていた大老・前田利家が病死します。
その直後、三成と対立関係にあった武断派の加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明の7将が、三成の大坂屋敷を襲撃したのは有名な話ですよね。
しかし三成は事前に佐竹義宣の助力を得て大坂から脱出し、伏見城内に逃れていました。
この仲裁に乗り出したのが徳川家康でこれにより和談が成立し、三成は五奉行からの退隠を承諾しました。
前田利家の死去・石田三成の蟄居により、家康の専横は再び活発になり、一旦白紙にしていた無断婚姻や秀吉の遺命で禁止されていた所領配分なども実施しました。
慶長5年(1600年)7月、三成は家康を排除すべく、上杉景勝・直江兼続らと密かに挙兵の計画を図ったといわれています。
その後、上杉勢が公然と家康に対して叛旗を翻し、家康は諸大名を従えて会津征伐に赴きました。
これを東西から家康を挟撃する好機として挙兵を決意した三成は、大谷吉継を味方に引き込もうとします。
吉継は、家康と対立することは無謀であるとして反対しましたが、三成との親交などもあって承諾しました。
これには秀吉存命の折の茶会で、らい病を患っていた吉継の膿が茶に落ちたとき余人が回し飲むのをためらった際、三成が吉継のためにそれを飲み干したため、その友情に報いようとしたためという説もあります。
同年7月17日、毛利輝元を西軍の総大将として大坂城に入城させ、同時に前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行連署からなる家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状を諸大名に公布しました。
7月18日、西軍は家康の重臣・鳥居元忠が守る伏見城を攻め、8月からは伊勢方面の平定に務めましたが、家康ら東軍の西上が予想以上に早かったため、三成は関ヶ原で野戦を挑むことを決めます。
そして9月15日、東軍と西軍による天下分け目の戦いである『関ヶ原の戦い』が始まりました。
当初は西軍優勢であり、石田隊は6900人でしたが、細川忠興・黒田長政・加藤嘉明・田中吉政ら兵力では倍以上の敵に攻められたものの、島左近・蒲生郷舎・舞兵庫らの奮戦もあって持ちこたえました。
しかし西軍全体では戦意の低い部隊が多く、次第に不利となり、最終的には小早川秀秋や脇坂安治らの裏切りによって西軍は総崩れとなり、三成は戦場から逃走して伊吹山に逃れることになります。
その後は春日村に逃れ、新穂峠を迂回して姉川に出た三成は、草野谷、小谷山の谷口、高時川の上流に出て古橋に逃れましたが、9月21日、家康の命令を受けて三成を捜索していた田中吉政の追捕隊に捕縛されました。
そして9月22日、大津城に護送されて城の門前で生き曝しにされ、その後家康と会見し、9月27日には大坂に護送され、9月28日には小西行長、安国寺恵瓊らと共に大坂・堺を罪人として引き回されました。
9月29日、京都に護送され、奥平信昌(京都所司代)の監視下に置かれ、10月1日、家康の命により六条河原で斬首されました。
一説では、引き回された三成は影武者であり、本物の三成は高知へ逃げて自害したとも言われています。
天地人 『石田三成』


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