天地人

2009年8月11日 (火)

天地人 『小早川秀秋』

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先日の『天地人』では、初めて上路雄輔演じる『小早川秀秋』が出てきましたね~!!

なんだか後半に入ってからは展開が早いような気がします。

この小早川秀秋『関ヶ原の戦い』ではとても重要なカギを握る人物です!!

出生は豊臣秀吉の正室寧々の兄、木下家定の子で幼名を辰之助。

元服時の初名は木下秀俊といいます。

後に羽柴秀吉の養子になり羽柴秀俊と名乗り、天正17年(1589年)、病死した豊臣秀勝(秀吉の甥で秀次の兄)の旧領地・丹波亀山10万石を与えられます。

文禄3年(1594年)、秀吉の命にて小早川隆景(毛利元就の三男で輝元の叔父にあたります)の養子として小早川家に入りました。

関ヶ原の戦いでは最初は西軍に参戦してますが、一説に当初から東軍と内通していたとも言われています。

このため石田三成大谷吉継らは、秀秋の行動に不審を感じ、関ヶ原の合戦の前に西軍勝利の暁には豊臣秀頼が成人するまでの間、関白職への就任を約束するなどして西軍への残留工作を行っています。

ですが秀秋家康との間に密約があったとされる説もあり、合戦時には西軍に布陣はしていたものの秀秋の心は東軍にあったとされています。

しかし、午前中の戦況は西軍有利に推移しており秀秋は東軍参加を躊躇。

それにいら立った家康は何度も使者を送って西軍への攻撃命令を下すものの、軍を動かさない秀秋に対し威嚇発砲させました。

(この件はけっこう有名な話ですよね!!)

それに動揺した秀秋はついに東軍への加担を決意、合戦の戦況も東軍へと傾いてきました。

合戦は東軍の勝利となり、家康から岡山55万石に加増され、この頃より小早川秀詮(ひであき)と名乗るようになります。

そして、21歳で死去していますが、その死因については今でも様々な説があるようです。

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2009年6月 7日 (日)

天地人 『真田幸村』~続き

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先日の『真田幸村』の続きです。

前回は九度山に配流させられたところまででしたので、今日は大阪城入城からです。

慶長19年(1614年)「方広寺事件」をきっかけに徳川氏と豊臣氏の関係が悪化、大名の加勢が期待できない豊臣家は浪人を集める策を採り、九度山の幸村の元にも使者を派遣します。

「方広寺事件」とは、この鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の銘文が徳川家康の“家”と“康”を分断し豊臣を君主として、家康および徳川家を冒涜するものとみなされて、大阪の役による豊臣家滅亡を招いたとされています。

幸村は国元にいる父・昌幸の旧臣たちに参戦を呼びかけ、九度山を脱出して子の大助幸昌とともに大坂城に入城しました。

しかし幸村自身については、それまで真田氏の次男坊として父・昌幸や兄・信之の名声に隠れていたために評価は低く、徳川家康昌幸ではなく、その息子で無名の幸村が大坂に入ったと知り安堵の表情を浮かべたとされています。

そして慶長19年(1614年)に始まる大坂冬の陣幸村は、当初籠城に反対し、京を抑え、宇治・瀬田で積極的に迎え撃つよう主張しました。

しかし籠城の策と決すると、幸村は大坂城の弱点であった三の丸南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる土作りの出城を築き、鉄砲隊を用いて徳川方を挑発し先方隊に大打撃をあたえました。

この真田丸を造る際、大坂方の他の武将は幸村が徳川方に寝返るための下準備と疑っており、少々ながらも警戒していました。

しかし、この時は越前松平勢、加賀前田勢等を撃退し、真田昌幸の息子という扱いではなく、初めて“真田幸村”として、その武名を知らしめる事となります。

冬の陣の講和後、この真田丸は両軍講和に伴う堀埋め立ての際に真っ先に取り壊されてしまいました。

そして大坂方の弱体化を謀る家康は慶長20年2月に、使者として幸村の叔父である真田信尹を派遣し「信濃の中で一万石を与える」事を条件に寝返るよう説得しています。

しかしこれを幸村が断わると、家康は再び信尹を使者として差し向け、今度は「信濃一国を与える」と説得に出ました。

これを聞いた幸村は「一万石では不忠者にならぬが、一国では不忠者になるとお思いか」と再びはねのけたといいます。

翌年の大坂夏の陣では、道明寺の戦いにおいて、伊達政宗隊の先鋒を銃撃戦の末に一時的に後退させました。

これら度々の勝ち戦により、次第に徳川軍も真田軍への攻撃を自重せざるを得なくなり、幸村はそれを見て堂々と大坂城に一時撤収します。

しかし豊臣軍は後藤基次木村重成などの主だった武将が討死し、疲弊していきました。

幸村は士気を高める策として豊臣秀頼自身の出陣を求めましたが、側近衆や母の淀殿に阻まれ失敗します。

豊臣氏の敗色が濃厚となる中、幸村は最後の作戦として、豊臣方右翼として真田軍、左翼として毛利勝永軍を四天王寺・茶臼山付近に陣形し射撃戦と突撃を繰り返し徳川軍の陣形に対し本陣を孤立させ、明石全登の軽騎兵団を迂回させ家康本陣を横撃させるというものでした。

しかし毛利隊の前面諸将が勝手に射撃を開始してしまったため、作戦を断念せざるを得なくなりました。

そして正面から徳川家康の本陣めがけて決死の突撃を敢行します。

この突撃は真田勢のみではなく、左翼から攻める毛利勝永明石全登らも奮闘し家康本営に肉薄し、勝永は本多勢を蹴散らし、何度か本営に突進したといわれています。

真田勢は越前松平勢を突破し、家康の本陣まで攻め込み、屈強で鳴らす家康旗本勢を蹴散らしました。

しかし、最終的には数で勝る徳川軍に追い詰められ、越前松平勢鉄砲組の西尾仁左衛門宗次にその首を討たれました(享年49)。

幸村討死の翌5月8日、豊臣秀頼淀殿母子は大坂城内で自害、秀吉の誇った大坂城も炎上し落城、ここに大坂夏の陣は徳川方の勝利に終わりました。

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2009年5月30日 (土)

天地人 『真田幸村』

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今週の天地人は『真田幸村参上』ということで、いよいよ「真田幸村」が登場、城田優が演じます。

真田幸村石田三成同様、兼続の生涯の盟友といわれていますね!!

ただ兼続より年が下ということもあり、師弟関係とも言われているようです。

幸村は史実では「真田信繁」といいます。

信繁という名前はあまり馴染みはないのですよね!!

幸村という名前は、江戸期以降の講談などの影響で広く知られるようになりますが、直筆の書状を始め、幸村が生きていた同時代の史料で「幸村」の名が使われているものは存在しないそうです。

「幸村」という名前が初めて登場したのは、江戸時代の寛文12年(1672年)成立の軍記物語『難波戦記』で、その本が爆発的に売れたため、「幸村」とすることのほうが一般的となりました。

「幸村」という名の由来は、父親の真田昌幸の死後に昌幸の片諱を継承して実際に「幸村」と名乗ったという説や、夏の陣での死の二ヶ月前に「幸村」と改名したため、という説もあります。

しかし、大阪冬の陣と大阪夏の陣の半ばの慶長20年2月に叔父にあてた手紙や、兄・姉にあてた手紙にも信繁の名があります。

天正3年(1575年)父親の真田昌幸(当時は武藤喜兵衛を名乗ってました)が武田家の家臣時代、幸村が9歳の時、真田氏の主家で甲斐国・信濃国を治める武田勝頼が、長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗北します。

この時期、昌幸の2人の兄も亡くなったため、真田家は昌幸が継ぐこととなり、信繁は父に付き従い古府中を離れ上州岩櫃城に移る。これより信繁も真田を称するようになりました。

おととしの大河ドラマ『風林火山』で佐々木蔵之介が演じていた真田幸隆は幸村の祖父にあたります。

天正10年(1582年)3月11日、織田・徳川・北条連合軍の甲斐侵攻で武田氏が滅亡すると、真田氏は織田信長に恭順し所領を安堵されます。

そして本能寺の変後は、所領を守るために上杉・北条・徳川など周辺の諸大名の傘下を渡り歩くことになり、この際に当主の息子である幸村は人質として諸大名の下を転々としています。

昌幸は最終的に秀吉の傘下に入ったため幸村秀吉の下に留まり、のちに秀吉の家臣・大谷吉継の娘を正妻に迎え、文禄3年(1594年)11月2日、豊臣氏名義で従五位下左衛門佐に叙任されます。

関ヶ原の合戦では、五大老の徳川家康が同じく五大老の一人だった会津の上杉景勝討伐のための軍に従軍し、留守中に五奉行の石田三成らが挙兵して関ヶ原の戦いに至ると、父と共に西軍に加勢しましたが、兄の信之は妻が本多忠勝の娘のため徳川方の東軍につき袂を分かつことになります。

徳川方の東軍は東海道と中山道を分かれて進軍し、昌幸と幸村は居城の上田城に籠り、中山道を進んできた東軍の徳川秀忠軍と上田城で迎え撃ちました。

寡兵の真田勢にてこずった秀忠軍は上田城攻略を諦め去りましたが、結果として主戦場となった美濃関ヶ原での決戦には遅参することになります。

しかし三成率いる西軍は、秀忠軍ぬきの徳川方に敗北を喫し、昌幸幸村は本来なら敗軍の将として切腹を命じられるところでしたが、信之の取り成しで紀伊国九度山に配流を命じられるのみにとどまりました。

蟄居中の慶長16年(1611年)に父・昌幸は死去し、慶長17年(1612年)には幸村は出家し伝心月叟と名乗りました。

この後大阪城への入場へと続きますが、また後日改めてということにします。

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2009年5月24日 (日)

天地人 『石田三成』~続き

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今日の天地人は『三成の涙』ということで、今日の放送で三成兼続はかなり接近することになるでしょう!

なので、今日は先日書いた『石田三成』の続きで、秀吉死後の内容になります。

豊臣氏の家督は嫡男の豊臣秀頼が継ぎますが、次の天下人の座を狙う関東250万石の大老・徳川家康が次第に台頭してゆきます。

家康は天下を手中に治めるため、三成と対立関係にあった福島正則加藤清正黒田長政らと、豊臣氏に無断で次々と縁戚関係を結びます。

慶長4年(1599年)1月、三成家康の無断婚姻を「秀吉が生前に制定した無許可縁組禁止の法に違反する」として、前田利家らと諮り、家康に問罪使を派遣します。

家康も豊臣政権の中で孤立する不利を悟って、2月2日に親豊臣派と誓紙を交わして和睦しました。

しかし、閏3月3日に家康と互角の勢力を持っていた大老・前田利家が病死します。

その直後、三成と対立関係にあった武断派の加藤清正福島正則黒田長政細川忠興浅野幸長池田輝政加藤嘉明の7将が、三成の大坂屋敷を襲撃したのは有名な話ですよね。

しかし三成は事前に佐竹義宣の助力を得て大坂から脱出し、伏見城内に逃れていました。

この仲裁に乗り出したのが徳川家康でこれにより和談が成立し、三成は五奉行からの退隠を承諾しました。

前田利家の死去・石田三成の蟄居により、家康の専横は再び活発になり、一旦白紙にしていた無断婚姻や秀吉の遺命で禁止されていた所領配分なども実施しました。

慶長5年(1600年)7月、三成家康を排除すべく、上杉景勝直江兼続らと密かに挙兵の計画を図ったといわれています。

その後、上杉勢が公然と家康に対して叛旗を翻し、家康は諸大名を従えて会津征伐に赴きました。

これを東西から家康を挟撃する好機として挙兵を決意した三成は、大谷吉継を味方に引き込もうとします。

吉継は、家康と対立することは無謀であるとして反対しましたが、三成との親交などもあって承諾しました。

これには秀吉存命の折の茶会で、らい病を患っていた吉継の膿が茶に落ちたとき余人が回し飲むのをためらった際、三成が吉継のためにそれを飲み干したため、その友情に報いようとしたためという説もあります。

同年7月17日、毛利輝元を西軍の総大将として大坂城に入城させ、同時に前田玄以増田長盛長束正家の三奉行連署からなる家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状を諸大名に公布しました。

7月18日、西軍は家康の重臣・鳥居元忠が守る伏見城を攻め、8月からは伊勢方面の平定に務めましたが、家康ら東軍の西上が予想以上に早かったため、三成は関ヶ原で野戦を挑むことを決めます。

そして9月15日、東軍と西軍による天下分け目の戦いである『関ヶ原の戦い』が始まりました。

当初は西軍優勢であり、石田隊は6900人でしたが、細川忠興黒田長政加藤嘉明田中吉政ら兵力では倍以上の敵に攻められたものの、島左近蒲生郷舎舞兵庫らの奮戦もあって持ちこたえました。

しかし西軍全体では戦意の低い部隊が多く、次第に不利となり、最終的には小早川秀秋脇坂安治らの裏切りによって西軍は総崩れとなり、三成は戦場から逃走して伊吹山に逃れることになります。

その後は春日村に逃れ、新穂峠を迂回して姉川に出た三成は、草野谷、小谷山の谷口、高時川の上流に出て古橋に逃れましたが、9月21日、家康の命令を受けて三成を捜索していた田中吉政の追捕隊に捕縛されました。

そして9月22日、大津城に護送されて城の門前で生き曝しにされ、その後家康と会見し、9月27日には大坂に護送され、9月28日には小西行長安国寺恵瓊らと共に大坂・堺を罪人として引き回されました。

9月29日、京都に護送され、奥平信昌(京都所司代)の監視下に置かれ、10月1日、家康の命により六条河原で斬首されました。

一説では、引き回された三成は影武者であり、本物の三成は高知へ逃げて自害したとも言われています。

天地人 『石田三成』

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2009年5月17日 (日)

天地人 『石田三成』

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さて今日の天地人は『秀吉の罠』ということでいよいよ舞台は越後から京・大坂となっていきますね!!

そして兼続の盟友石田三成も本格的に物語に登場してきます。

そこで今日は小栗旬演じる『石田三成』について書きます。

永禄3年(1560年)、石田正継の次男として近江国坂田郡石田村(現滋賀県長浜市石田町)で生まれで、幼名は佐吉といいます。

羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が織田信長に仕えて近江長浜城主となった天正2年(1574年)頃から秀吉の小姓として仕えます。

この時の逸話の三杯の茶はあまりに有名ですよね!!

天正10年(1582年)6月、信長「本能寺の変」により明智光秀に討たれ、次の天下人として秀吉が台頭すると、三成秀吉の側近として次第に台頭していきます。

天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いに従軍の際、柴田勝家軍の動向を探る偵察行動を担当。

また天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いにも従軍し、同年近江国蒲生郡の検地奉行を務めました。

秀吉政権下での三成は天正13年(1585年)7月11日、秀吉の関白就任に伴い、従五位下治部少輔に叙任されます。

また、同年末に秀吉から近江水口4万石の城主に封じられました。

この時、当時智勇兼備の名将として名高かった島左近を4万石のうちの半分の2万石の知行を与えて召抱えたといわれています。

この件は原哲夫作のSAKON(左近)-戦国風雲録-が面白いですよ(*^-^)

同年、越後の上杉景勝秀吉に臣従を誓うために上洛してきたとき、これを斡旋しました。(今日の天地人ですね!!)

後に九州征伐や四国征伐などに従軍しましたが、兵糧・武具などの輜重を担当していたと言われています。

文禄元年(1592年)、朝鮮出兵(文禄の役)が始まると朝鮮に渡海し、増田長盛大谷吉継とともに朝鮮出兵の総奉行を務めます。

文禄2年(1593年)、碧蹄館の戦い、幸州山城の戦いに参加。

その後明軍の講和使謝用梓徐一貫を伴って肥前・名護屋に戻るなど、明との講和交渉に積極的役割を果たしています。

しかし、秀吉と現地の連絡役という立場の行動は、豊臣家中で加藤清正福島正則ら武断派の反発を招くことになりました。

そして慶長2年(1597年)、慶長の役が始まると再び明・朝鮮との講和交渉に奔走しますが不調に終わりました。

慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉が死去すると、朝鮮に在陣していた諸大名の撤兵に尽力したと言われています。

以上が豊臣政権下での三成の略歴で、その後「関ヶ原の戦い」では家康を排除すべく、上杉景勝直江兼続らと密かに挙兵の計画を図るなど、これからの『天地人』の後半あたりにも大きくかかわってくると思うので、秀吉死後の三成はまた後日改めて書きます(*゚ー゚*)

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2009年4月26日 (日)

天地人 『直江信綱』

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ここ最近の天地人では『御館の乱』が続き、先週の最後には信綱が殺害されたところで終わりました。

というわけで、今日は最近クローズアップされている山下真司演じる『直江信綱』についてです。

信綱総社長尾家か庶流の高津長尾家の出身で、さだかではありませんが長尾顕方(山内上杉家家臣)の九男もしくは長尾景秀(越後上杉家家臣)の次男だったといわれています。

上杉家の重臣・直江景綱の娘お船と結婚して、その婿養子となり、名を「直江与兵衛信綱」と名乗り、天正5年3月5日の景綱の死後、その名跡を継ぎました。

『御館の乱』では、上杉景勝とともに春日山城に籠る一方、本拠地の与板城に残る直江氏一族を動員して周辺の上杉景虎派の討伐を進めます。

しかし乱後、新当主となった景勝のもとで重用されますが、恩賞を巡るトラブルなどから天正9年(1581年)、春日山城内で毛利秀広によって山崎秀仙とともに殺害されました。

毛利秀広は御館の乱当初は景虎方でした。

ですが、恩賞と引き換えに景勝方へ鞍替えし、武田家との折衝役を務めるなど大きな功績を残した武将です。

しかし乱後の論功行賞に於いて恩賞が無く、景勝側近の山崎秀仙の意見により景勝出身の上田衆のみを厚遇していたことを知り、春日山城内に於いて直江信綱と会談中の秀仙を急襲し殺害しました。

信綱秀広に傷を負わせたものの刺殺、その場に居合わせた岩井信能により討ち取られました。

信綱が殺害された後、ご存じのとおり妻のお船上杉景勝の命により樋口兼続と再婚することになり、直江家は兼続が継承することになり、こうして直江兼続が誕生しました。

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2009年3月29日 (日)

天地人 『武田勝頼』

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さて、今日は天地人の日ですね!!

「御館の乱」も中盤にさしかかり、いよいよ武田とのかかわりが面白くなりそうです(゚▽゚*)

なので今日は『武田勝頼』について語りたいと思います。

ドラマでは市川笑也が演じています。

武田勝頼武田信玄の庶子で母親は信玄の側室で諏訪頼重の娘。

そうです!! おととしの大河ドラマで『風林火山』で物語の中心にいました由布姫です。

本来であれば武田家は嫡男の義信が継ぎ、勝頼は諏訪氏継いで諏訪四朗勝頼を名乗っていました。

義信は永禄8年(1565年)に信玄暗殺を企てた謀反事件にかかわったとされ廃嫡。義信信玄あるいは両派の間で対立していたことが原因とされています。)

元亀4年(1573年)4月、信玄が上洛作戦の途中で病死したため、武田姓に復し、家督を相続し、武田氏第20代当主となります。

その後、織田信長徳川家康の台頭で領土を奪われ、天正3年(1575年)の長篠の戦いでは織田・徳川連合軍に大敗を喫します。

以後急速に勢力が減退し、越後と同盟し外交方針を転換しますが(この頃がちょうど「御館の乱」の時期ですね!)織田・徳川両氏と相模の北条氏との両面作戦を余儀なくされ、領国の動揺を招きます。

政権末期には本国で新府城への府中移転により領国維持をはかりますが、織田信長の侵攻(武田征伐)により失敗。

1582年3月11日、天目山で自決、これにより武田氏は滅亡しました。

ちなみに徳川四天王の一人、井伊直政の有名な『井伊の赤備え』は武田の旧家臣団が配置され、武田の赤備えにあやかって編成されたのが始まりです。

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2009年3月22日 (日)

天地人 『上杉憲政』

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ここ最近の天地人は謙信公が死去してから、景勝と景虎とのお家騒動である『御館の乱』が物語が中心になっています。

今日はこの事件の主戦場にもなった「御館」に住んでいた上杉家前当主の「上杉憲政」について語ります。

大永3年(1523年)、上杉憲房の子として生まれ、大永5年(1525年)に父が死去したとき、まだ3歳という幼少であったため父の養子であった上杉憲寛(古河公方足利高基の子)が家督を継いで当主となりましたが、享禄4年(1531年)、憲寛を追放して山内上杉家の家督を継ぎ関東管領となりました。

関東管領とは室町幕府が設置した鎌倉府の鎌倉公方を補佐するために設置した役職名で9代目からは上杉家が世襲しています。(ちなみに憲政は26代目、謙信は27代目です。)

この頃の上杉家「山内上杉」「扇谷上杉」「犬懸上杉」などに分かれていて関東管領職も18代目からは「山内上杉」が世襲することになります。

話はそれますが、謙信公の出身の長尾家山内上杉の家宰(家老)の家柄で、初めて江戸城を築城した太田道灌扇谷上杉の家宰を務めた家柄です。

戦国時代の大名は主に「守護大名」「戦国大名」に分かれますが、「守護大名」は室町時代からの大名で守護職を任命されている家柄で、「戦国大名」は元は守護大名の直臣や陪臣などが下剋上により大名のし上がったものを言います。

ちなみに戦国時代での「守護大名」上杉氏武田氏今川氏などがそれにあたり、「戦国大名」では織田氏松平氏松永氏朝倉氏などがあげられます。

(話はどんどんそれますが、織田信長出身の織田氏は守護大名の斯波氏の守護代の家柄でさらに信長はその分家の出身です。)

だんだん調べていると話があちこちに飛び、頭の中が混乱してきますね!!

話を戻しますφ(・ω・ )

弘治3年(1557年)、憲政は長尾家から景虎(後の謙信)を養子に迎え、永禄4年(1561年)3月には鎌倉鶴岡八幡宮において長尾景虎関東管領職を譲渡しました。

このとき、景虎に上杉姓と「政」の字を下賜して上杉政虎と名乗らせ、同時に山内上杉家の家督、系図、重宝も譲渡しました。

その後謙信が死去すると、その養子である景虎と景勝との間で家督をめぐる争い『御館の乱』が勃発し、旧山内上杉家臣に北条氏との関係を重視する意見もあって、憲政は景虎を支持したとされています。

景虎は憲政の居館である御館に立て籠もり抵抗を続けるも窮地に立たされ、天正7年(1579年)、憲政は景虎の嫡男・道満丸とともに和睦交渉のため、春日山城の景勝のもとに向かいましたが、二人とも景勝方の武士によって討たれました。

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2009年3月15日 (日)

天地人 『御館の乱』~その後

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今日の天地人はいよいよ『御館の乱』です。

『御館の乱』は以前にも何度か書きましたので、今日はそれ以降の上杉氏を大まかにまとめてみました。

景勝側の勝利に終わった『御館の乱』は、その後越後に深刻な影響を残すことになります。

血で血を洗う内乱のため、上杉氏の軍事力の衰退は否定しようがなく、織田信長などの周辺強豪勢力からの軍事進攻をゆるしてしまいます。

また、恩賞の配分をめぐり、景勝方の武将間にも深刻な対立をもたらすことにもなりました。

戦後に与えられた恩賞は景勝の権力基盤である坂戸城を中心とした上田衆に多く与えられ、これに不満を持った新発田重家蘆名盛氏織田信長に通じて反乱を起こし、自立しました。

これを鎮圧するのに6年もの歳月がかかり、また、恩賞を巡るトラブルで直江信綱安田顕元らが非業の死を遂げました。

さらに、この内乱の隙を突いて織田軍柴田勝家が上杉領及び同盟勢力である加賀や能登、越中を攻め、会津からも改めて蘆名盛氏が侵攻してくるなど、この『御館の乱』謙信時代に培われた関東管領である上杉家の勢力と威信を大きく後退させた事件となりました。

また『御館の乱』は、武田家滅亡の遠因にもなります。

北条氏政は、実弟の景虎への支援を同盟者の武田勝頼に依頼しました。

当初、勝頼景虎を支援して自ら出陣しましたが、その後景勝支援に回ります。

その理由として、隙をついた徳川軍が遠江・駿河方面に侵攻してきたことや、北条氏景虎救援の動きが鈍く消極的なことから同盟者としての信頼が揺らいだこと、景虎の勝利により北条家が勢力を拡大させることを警戒したこと、景勝が講和条件として黄金と上野沼田領の譲渡を申し出たこと等が挙げられます。

これに対し越後の豪族達の支持を得る必要性があった景虎は、逆に勝頼に北信濃等の譲渡を求めていました。

これにより武田家中では景勝との和睦を支持する声が強まり、勝頼景虎を裏切って景勝との和睦に踏み切り、景勝に自分の妹の菊姫を娶わせました。

これを氏政勝頼の背信として「第二次甲相同盟」を破棄し、天正7年に徳川氏と、翌8年に織田氏と同盟します。

これにより上杉氏の国力が著しく疲弊していく間に武田氏は三方に敵を迎えることになります。

関東・伊豆方面では北条氏を圧倒した勝頼でしたが、度重なる東海道方面への出兵は武田家の経済状況を逼迫させ、武田家の弱体化の大きな要因の一つとなりました。

天正10年(1582年)の織田徳川北条勢による武田征伐は、結果的に上杉氏に重大な危機をもたらす結果となります。

景勝には同盟者勝頼を支援する余力はなく、武田氏は約一か月で滅亡し、越後と接する旧武田領はほとんどが織田領となりました。

北陸の柴田勝家、会津の蘆名盛隆のみならず、信濃から森長可、上野からは滝川一益が攻め寄せ、上杉氏織田軍によって崩壊一歩手前まで追い詰められます。

しかし、本能寺の変によって織田軍は退却し、織田領であった旧武田領景勝徳川家康北条氏政が奪い合い、景勝は北信濃を支配下に置くことができましたが、それ以上積極的な動きをすることができませんでした。

天正14年(1586年)、信長の後継者争いを勝ち抜き、四国も制した羽柴秀吉は、石田三成を通じて、景勝に臣従を求めました。

豊臣政権に対抗する術もない景勝は上洛し、秀吉に服従することになります。

これにより、豊臣政権の全面的な支援の下で新発田重家を討ち取り、佐渡、出羽庄内を領有化します。

豊臣政権に早くから服従した景勝は、秀吉からの信任が厚く、文禄4年(1595年)に五大老に任命され、慶長3年(1598年)には会津(120万石)に移封されます。

会津への移封は、東北諸大名と徳川家康の監視と牽制という重大な使命が科せられ、結果的に家康との対立は避けられないものとなり、関ヶ原の役の直接原因となった景勝は、慶長6年(1601年)には米沢(30万石)へ減移封され、信越に覇を唱えた上杉家も、景勝一代で東北の一大名へと没落しました。

以上が『御館の乱』以降の上杉氏のたどった道のりで、その間にも天下人は織田信長から豊臣秀吉、徳川家康へと移り変わっています。

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2009年3月 7日 (土)

天地人 『与七』

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天地人ももう2ヶ月が過ぎ放送も10回を迎えますね!!

前回では謙信公もなくなり、これからお家騒動である『御館の乱』に入っていきます。

今日は直江兼続の弟、『与七』についてです。

ドラマでは小泉孝太郎が演じています。

永禄5年(1562年)、樋口兼豊の次男として生まれ、後の天正10年(1582年)、天神山城主小国重頼の養子となり小国氏の家督を相続します。

このとき、景勝の命により、苗字を小国から大国と改め、『大国実頼』(おおくにさねより)と名乗ります。

ちなみに小国氏は摂津源氏の流れを汲む源頼行(源頼政の弟)を祖とする一族で、頼行の孫である源頼連が鎌倉時代に越後国小国保(新潟県長岡市小国町)の地頭となり小国氏を称した由緒ある家柄です。

天正14年(1586年)、新発田重家の乱では新発田重家討伐に参陣し新潟城を焼打ちにし、また豊臣秀吉の聚楽第新築のときには上杉家の使者も務めました。

この頃は頻繁に上洛し、木戸寿三と共に連歌会に多く参加したり、天正19年(1591年)には連歌師里村紹巴の催す連歌会にも度々参加し、実頼は『米府侍組由緒』には「能書、連歌の上手」と評されています。

慶長3年(1598年)、上杉景勝の会津移封に従い南山城代とし2万1000石を与えられました。

そして慶長5年(1600年)に景勝徳川家康と対立して会津に神指城を築城しようとしたとき、兄の兼続と共に普請奉行を務めて功を挙げています。

関ヶ原の合戦後、羽前高畑城7000石の城代となりましたが城には移らず、上京して伏見に滞留。

慶長9年(1604年)、実兄直江兼続本多政重(本多正信の子)との養子縁組に反対し、政重の迎えに上京した使者を伏見宿にて殺害し高野山に逃れました。

以後、高野山に隠遁していましたが兼続の死後、米沢北郊の中小松村に戻り元和8年(1622年)に死去。(享年61)

実頼の死後、大国家は断絶しますが、実頼の弟の樋口秀兼の子である光頼を養子に迎える形で大国家を再興しています。

娘の阿虎実頼出奔後、兄の直江兼続が預かり、慶長14年(1609年)に兼続の養女として本多政重に嫁して、後に加賀で没しました。

余談ですが、王子製紙会長であった大国昌彦氏は大国家直系の末裔にあたるそうです。

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